こんにちは!ラーメンインタビュアーの岡崎美玖です。
冬になると、なぜか湧き出る味噌ラーメンの恋しさたるや……
今回ご紹介するのは、そんな味噌ラーメンを求める皆様にお届けしたい、東京・江戸川橋に店を構える味噌ラーメン専門店。
なんでも、一度は聞いたことがあるでしょうあの札幌の名店「すみれ」公認の暖簾分け店なのです。
実は、すみれの系譜を継ぐ公認店は東京都内には3店舗のみと、まだまだ多くはない貴重なお店なのです。
では、早速ご紹介していきましょう!
ちなみに、過去『すみれ』で修業された公認店は以下10店舗(※2023年2月14日現在)
・麺屋 彩未(美園/北海道)
・八乃木(発寒/北海道)
・狼スープ(札幌/北海道)
・三ん寅(江戸川橋/東京)
・大島(船堀/東京)
・札幌ラーメン郷(高座渋谷/神奈川)
・らーめん 福籠(浅草橋/東京)
・IORI(千歳/北海道)
・麺屋 つくし(富山/富山)
・らー麺 ふしみ(札幌/北海道)
番外編
・ムラナカラーメン研究所 「おにやんま」(札幌/北海道)
→『すみれ』別邸。村中社長が自ら厨房に立つこともあるのだとか……!?
本記事は『三ん寅』菅原店主へのインタビューをもとに執筆しております。
お話を聞いて初めて分かったことも盛り沢山!ぜひ最後までお楽しみください!
有楽町線江戸川橋駅 徒歩3分ほどのラーメン店『三ん寅』
江戸川橋駅から徒歩3分ほどのところにある『三ん寅』(さんとら)。
大通りから一本中に入ったところにありますが、これは「どうしても大通りではなく一本入った路地でお店をやりたかった」という店主の菅原さんのこだわり。
ちなみに、江戸川橋にお店を構えた理由は完全に「物件が決め手だった」のだそうです。
屋号の「三ん寅」というのは、菅原さんが3月生まれの寅年だったことに加え、尊敬する鰻屋さんからアドバイスをいただいた、『屋号に”ん”をいれると運がつく』という思いに由来しているそうです。
『三ん寅』は2019年にオープンして早々、TRY新人部門みそ1位(2020-2021)、TRY名店部門みそ1位(2021-2022、2022-2023)、食べログラーメンTOKYO2年連続選出店(2021、2022)など受賞した実力店。
今もなお行列の絶えない人気店です。
全体のメニューはこんな感じです。
今回は「味噌チャーシューめん+ごはん(小)」をいただきます!
※メニュー写真が過去のもののため価格が異なります。最新の価格は下記菅原店主のツイートをご確認ください!
【お知らせ】
この度、原材料の度重なる高騰に伴い4/29(金)よりラーメン各種と一部のサイドメニューを値上げさせていただく事に致しました。何度も現価格での営業を検討しましたがご時世的な事も重なり決断に至りました。大変心苦しくご不便をおかけしますが、今後ともご愛顧いただけますと幸いです🙇♂️ pic.twitter.com/NaMfsyZVcS— 三ん寅 店主 (@3n_tora) April 28, 2022
香ばしい味噌にあつあつのスープがポイントの「味噌チャーシューめん」
いざ、到着!
麺の上には、もやし、チャーシュー(2種)、メンマ、しょうが、ネギがトッピングされています。
いざ一口スープを飲んでみると……
アッッッッツ!!!!!!!!(熱)
やっぱり味噌ラーメンはあつあつでなくちゃ。
『すみれ』といえば、あつあつのラードがスープの表面を覆っている印象ですが、それもしっかりと継承されていて最高です。
黄色くコシのあるちぢれ麺も、『すみれ』が使っていた西山製麺に特注でお願いしているのだそう!
どうしても札幌で出来上がったものを配達して頂くとなると中2日かかってしまうので、それを計算して(配合を)変えています。
そんなこだわり抜かれた、この麺ならではの嚙み心地がたまりません……!!
そして、私的外せないサイドメニューが「小ごはん」。
パツパツの麺をおかずに食べるのも至福ですが、タレがよくよく染み込んだチャーシューをご飯にくるりとまいて頂けば、この上ない幸せがすぐそこに。
ぜひ食べていただきたい一品です。
ごちそうさまでした!
【独占①】まさに職人技!”味噌を焼く”工程に秘訣あり
サラリーマンからラーメン業界に転身し、『すみれ』本店、同京都店(現在は閉店)、新横浜ラーメン博物館店などの店長を歴任。17年間『すみれ』を支え続けた『三ん寅』店主、菅原さん。
トレードマークのはちまきは、憧れでもある『すみれ』出身の『麺屋 彩未』店主・奥雅彦さんへのリスペクトを込めて、同じスタイルにしているのだとか。
ーーそもそも普通の「味噌ラーメン」と「札幌味噌ラーメン」の違いはどこにあるのでしょう?『三ん寅』のこだわりも含めて教えてください!
「基本的に中華鍋でラード、ニンニク、もやしや玉ねぎを合わせて、そこに味噌スープを注ぐっていう手順に“味噌を焼く”という工程が加わったものが”純すみ系”になります」
“純すみ系”とは?
大崎裕史(2011).日本ラーメン秘史 日経プレミアシリーズ より
1964年に村中明子さんが創業し、長男が「純連(じゅんれん)」、三男が「すみれ」として受け継いだもの。「新横浜ラーメン博物館」には、三男が出店し、これが全国的に知られるきっかけとなった。
「また、通常の味噌ラーメンですと仕込んだスープを手鍋で温めてどんぶりにタレを入れて注いでいくという形ですが、うちの札幌味噌ラーメンは全部中華鍋の中でその都度調理していく感じですね」
ーーなるほど、すべて鍋の中で完結させるのですね!覚えるのも大変そうです……
「常に営業中は高火力で火を入れるため、レシピなどがないんですよ(笑)見て感覚で覚えるものなので。
『すみれ』での修業時代も、塩のタレや醤油のタレに関しては、水何ccに対してどのくらい、などあったのですが、味噌に関してはグラム数や入れるものは決まっているものの、それ以外の工程含めたレシピがないんです。教えるから、と言われて教えられたことがなくて(笑)」
ーーまさに職人技ですね。すみれの系譜を継ぎながらも、『三ん寅』独自のものはありますか?
「スープの濃度を修業先当時の規定量から増やしてみたり、なるべく味噌もそうですけど修業先は2種類だったものを1種類増やして3種類にしたり、まだ完成はしていませんが、いろいろ模索している最中ですね」
【独占②】「ダメでもいいから思い切って飛び込んだほうがいい」背中を押されラーメン業界へ
ーー脱サラされてラーメン業界に入られた菅原さんですが、門をたたいた『すみれ』は当時お弟子さんの募集などはしていなかったそうですね……!?
「僕がお願いした当初は募集を行っていませんでしたが、アルバイトの募集はしていました。
何かちょうど違うことをやりたいなと思っていて、具体的に”ラーメン”と決まってはいなかったのですが、北海道内で営業職をしていた当時、ラーメンは好きで年間300~400杯は食べていたと思います」
「修業を経験している方たちに当時僕が26、27歳だったタイミングで“ラーメンがそんなに好きだったら、ダメでもいいから思い切って飛び込んだほうがいいんじゃないの?もうぎりぎりだよ”と背中を押してもらっていました。そんな中で、コンビニで立ち読みしていて目に留まったのが『すみれ』の”アルバイト募集中”の文字だったんです」
「当時、『すみれ』出身の方は『麺屋彩未』さん、『やぶれかぶれ(現:月光軒)』さん、『狼スープ』さんの3軒しかなかったんですよ。そこに好きでよく通ってて。格好いいなあ……と思いながら(笑)
「ラーメンやるなら、やっぱりここ(すみれ)でやりたい」と思って、すぐに電話したんです。
当時弟子は募集していませんでしたが、とりあえずなんとか面接までこぎつけて、
”まずはアルバイトからやってみればいいんじゃないか?”ということで、採用して頂けました」
【独占③】「厳しさからついてこれない人も多い」辛すぎて逃げ出した過去
ーー今や都内で札幌味噌ラーメン、といえばラーメン好きの中でも必ず店名があがる『三ん寅』さんですが、菅原店主は過去にぶつかった壁などありましたか……?オープンして早々賞も取られて、とんとん拍子なのかなとか……
「修業時代の話なのですが、僕、修業に入って一か月ぐらいのとき、一度だけ逃げ出したことがあるんですよ(笑)」
ーー……えっ!?!?!?!?!?!?!?菅原さんがですか!?!?
「未経験で入って、当時年上の先輩がみんな抜けて入れ替わりの時期だったんですよ。結構先輩だけど年下、という方が多くて。でも僕らの世界、一日でも早く入った人が先輩ですから。
僕全然できなかったので……どこにでもいると思うんですけど、若いけど勤務年数が長くて厳しい方とかいるじゃないですか(笑)」
「当時横浜ラーメン博物館で働いていたのですが、とにかく忙しくて常時2時間ぐらい並んでいて。
あまりにも自分が飛び込んだ業界で自分の出来なささに負けてしまって、1日逃げ出したことがあるんです」
ーー今の菅原さんを見ていたら信じられないエピソードです……そこからどう乗り越えたのですか?
「よくよく考えて、続ける続けないは別にしてもやはりよぎるわけですよ。先輩の顔とか社長の顔とかが。
何も言わないで逃げるのはよくないなと。”とりあえず頭は下げないとあかん”と思って戻ったんです。
そうしたらたまたま社長が、人が足りなくていらっしゃっていて…..」
「こんなことをしてしまって、もう判断するのは親方であったり、先輩たちじゃないですか。残らせて下さいなんて恩着せがましいことは言えず、すみません、と頭を下げました。
すると社長に『今後どうしたいんだ?』と聞かれて……『続けさせていただけるのであれば、この分取り返すまで頑張ります』と言うと、『分かった。とりあえず戻ってきてくれて良かった』と言って肩をポンとたたいてくださったんです」
「怒られると思ったんですよ。それかクビを覚悟していました。
”これはもうずっと恩を返すまでは『すみれ』にいないとダメだな”とその時思いましたね」
ーーそんなこともあって『すみれ』で17年の勤務。凄いです。
「『すみれ』では、ある日突然呼ばれて”ちょっと今日作ってみて”と言われた日がスタートなんです。それで失敗したらもうチャンスはなくて。
そのためにみんな、出勤の2時間前にこっそりときて早く仕込みを終わらせて、練習をするんです。
厳しさからついてこれない人も多くて、同期で2~3人、半年くらい前に入っていた先輩が4人ほどいましたが、皆逃げてやめてしまったり、、誰も残っていないです。
……ただ、一回逃げ出して戻ってくるのは、逃げ出したときよりも大変で。
これは生半可な気持ちではだめだと思い、なんとか続きましたね(笑)」
ーーどうマインドリセットしたんですか?
「もうとにかく毎日必死でした。でもあの体験があって、今逃げ出さずに済んでいるんじゃないかなと思いますね」
ちなみに、船堀にある『大島』店主の大島さんは、僕が逃げ出したときに横浜ラーメン博物館に出張で来ていて……(笑)
僕が逃げ出したので、その逃げ出した日の勤務中の休憩がなくなったと後ほど知りました。今はもう笑い話ですけどね(笑)
【独占④】17年間の修業の末、独立に至る決断とある思い
ーー生まれも育ちも北海道の菅原さんですが、独立をしよう!と思ったきっかけは何だったんですか?
「いずれ独立はするつもりで(すみれに)入りました。ただ、東京に来ることは初めは全然考えていなかったんですよ(笑)地元札幌で細々とやろうと思っていたのですが、ちょうど僕が入って少ししてから、もともと新横浜ラーメン博物館と本店のみだった『すみれ』が、一気に12店舗ほど全国に店舗拡大をしはじめたんです」
「その時に、結構立ち上げで行ったので、ほぼ17年間の修業のうち3分の2は北海道にいなかったので、他の都道府県を見ると魅力を感じてきてしまって……(笑)
初めは道外への出張が嫌で、北海道によく帰りたいなと思っていたのですが、行って住みだして色んなところに行くと自分の見ていない世界が沢山あることに気づいて……(笑)」
ーーいくら美味いもの大国の北海道でも、他県の魅力にとりつかれてしまったわけですね(笑)
「気が付いたらちょうど17年目を迎えたときに、都内か横浜近辺でお店を出したいという思いが出てきましたね」
「あとは、親方に言われていた『今の時代、ラーメン屋はうまくて当たり前。それを超えていかないと(お客様は)来ないよ』という言葉が印象に残っていて。
昔と違って足で探すのではなくスマートフォンで探せば近所のラーメン屋さんが出てくる時代ですから、その中でも生き残っていくって厳しいですよね」
ーーなるほど。ラーメン作りのうえで、菅原さんの中での”理想像”はありますか?
「焼き味噌なので通っていると焼き具合の波ってあって、どうしても2秒3秒違うだけであるんですよ。家系でもよく「ブレ」って聞くじゃないですか?
“あの時はこういう感じだったよな”というベストな味の記憶を頼りにして、さらに自分のエッセンスなどをプラスして自分の味を作る、の繰り返しですね」
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